pon0811’s blog

ADHDをもつははとむすこのブログです。コンサータを飲んでいますが、失敗は多いです。同じような境遇のかたの参考になればうれしいです。よろしくお願いします。

私のADHD履歴書 看護学校へ行くまで編

こんにちは。ぽんたです。

なんとか高校を卒業しましたが、就職先もみつからずバイトをしながら暮らしていました。バイトもなかなか続かず、ミスを繰り返します。レジではお金をキャッシャーにいれ忘れお客さんにとられてしまった上にお釣りを渡し、警備のバイトでは休憩交代要員なのに昼寝をして、全く誰とも交代をしないという事件を起こしました。

ある日突然このままではいけない!と思い、職安に行きました(何のきっかけもなく突然動くことはよくあります)

職安の職員の方がとても親切で看護助手の仕事を探してくれました。

職場は新しい病院で大変でしたが、それなりに楽しく大きなトラブルもなく働くことができました。この時きちんと働けていた自信が総婦長が勧めてくれた准看学校へ行くきっかけにもなりました。

前置きが長くなってしまいました。

ここで一旦終わります。次回は本当に看護学校編です。ではまた~。

私のADHD履歴書 高校生編

こんにちは。ぽんたです。

高校は幸いなことに女子高だったので、だらしないことが理由でいじめられることはありませんでした。よくある女子集団のいじめはありましたが、すぐターゲットが移るような軽いものでした。

高校にはいり、テニス部のマネージャーになりましたが、伝え忘れや試合のオーダーミスを繰り返し、居づらくなってやめてしまいました。それからはバイト一色の生活に変わり、学校には寝に来ている状態です。働いたぶん対価(バイト代)が得られるのが楽しく、月10万円稼ぐときもありました。夏休みは朝 新聞配達→昼魚屋→パン工場と渡り歩きました。

こんなに必死で働いたお金は、食費や交際費に消えてしまい手元に残ることはありませんでした。忘れたものは都度購買で買っていたので聖書や讚美歌は何十冊もありました。ノートも1冊使いきったことはありませんでした。今考えると何て生活していたんだろうと思います。

私立高校だったので、原則バイトは禁止です。ばれる回数も計り知れなく何度反省文を書いたかわかりません(笑)

当然成績もさがる一方で最下位の辺りをウロウロしてました。

こんな状態だったので学校ではかなりの問題児でした。

今考えると不思議ですが、バイト先では大きなミスはなく、オーダー間違いなどもそれほど責められませんでした。当時は売り手市場でどこも人が足りなかったことと、高校生だから‥と許してくれていたのかもしれません。良い時代でした。

ちらっと中学生編に書きましたが、高校を出たあと看護学校に行きます。次は看護学校編です。ではまた~。

私のADHD履歴書 中学生編

こんにちは。ぽんたです。

インフルエンザにかかりました  久しぶりに高熱でつらかったです。またまじめに書いていきたいと思います。前回の続きです。

中学生になっても相変わらず忘れ物も多く、だらしなくストッキングはいつも伝染していました。授業もほとんど聞いてなく、いつもぼーとしていました。

女子しかいないためか、環境がよかったのかいじめられることもなくたのしい3年間でした。

相変わらず悪知恵は働き、先生に好かれるために委員会に入っていました。

見栄っ張りで貧乏だと悟られるのが嫌い、お年玉や親戚からのお小遣いをすべて交際費にまわしていました。

忘れ物や遅刻も多く、授業もまともに聞いていないのでこの頃から成績も落ちる一方でした。

よく学校始まっての問題児と言われ、数名いたよく怒られるメンバーの一員でした。

問題児だったので、中学3年生の担任に『ストレートで高校には上がらせない。人生の荒波に揉まれろ』と言われ、高校に上がれないかと悩みました。

しかし、直接関わりのなかった先生が『自分が担任になって3年間面倒をみます』と言ってくれ無事に高校生になりました。

卒業後まちで偶然会ったとき、

『私看護師になったよ』と言ったときの先生の笑顔を今でも覚えてます。本当に面倒を見てくれてありがとうございました。

この偶然から1年後、先生は亡くなられました。あのときもっとゆっくり話をすれば良かったな‥後悔先に立たずですね。

次は高校生編です。よろしければおつきあいください。ではまた~。

私のADHD履歴書 小学生時代

こんにちは。ぽんたです。

小学生になると変わった子供だと言われるようになります。

小学校の先生は家庭環境が複雑でかわいそうという印象があったからでしょうか、とても可愛がってくれました。ADHDの子供は実年齢x0.7とよく言われますが、私も幼く見られました。多少悪さをしても怒られず、4年生までは自由気ままに行動していました。学校の宿題を通学途中に思いだし、道に広げてやりはじめたり、友達をそそのかして万引きをしました。つららで遊ぶために雪玉を窓にぶつけわってしまったり、嘘もよくついていたと思います。だらしなくて忘れ物も多く、いつも他のクラスに借りに行ったり、忘れ物コーナーから持ってきてごまかしていました。悪知恵はすごくはたらく子供でした。今ならかなりの問題児です(笑)

授業中もほとんど聞かず考え事をしたり寝ていました。

ここまでだとADHDが強い問題児ですが、良い面もありました。空想ばかりしてたので物語がをつくるのが上手でした。演劇に力をいれている小学校だったので、毎年先生の脚本で劇をやるのですが、4年生のときは私の脚本が採用されました。歌の歌詞もつくりました。とても楽しくはじめて頼りにされる自分になれた気がしました。同時期に作文コンクールで市から表彰もされました。このときの経験が『文章を考えることが好き』につながっていると思います。

5年生になり、男女別々に行動するようになった頃から、徐々にいじめられるようになりました。私は自分の存在価値を見いだすために、積極的に行動するようになりました。みんなの嫌がっていることを進んでするようになり、役員を兼務したり児童会に立候補しました。図書委員長と生徒会副会長を兼務し休み時間の度に動き回ることが必要とされている感じがして嬉しかったことをよく覚えています。相変わらず忘れ物は多く、通知表には忘れ物が多いこと、体育が苦手なことが毎回書いてありました。授業を聞いてないわりに成績は良かったです。

6年生になり、義父がなくなりました。ここが人生の転換期だと思います。理由はいくつかありましたが、私立の中学校に進学しました。